「消えたい」という本を読んで「普通の目」じゃない目があることを知った

「消えたい-虐待された人の生き方から知る心の幸せ」という本を読んだ。親に虐待されて育った人について精神科医の人が書いた本だ。

著者は言う。普通の診断と治療が、この人達には通用しない、と。

それはなぜなのか。

まず、タイトルの「消えたい」。


まだ本を1行も読んでない時に、引っかかった。なんで「消えたい」がタイトルなの?ピンとこないな~って。

でも本を読み終わった今はよく分かる。

そう、タイトルは「消えたい」のであって、「死にたい」じゃないってこと。

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「消えたい」を読んで分かったこと

『どういうこと!?と思うのは「私の」目で見て解釈しているから』

普通は「死にたい」って思う。でも、死にたいってのは、生きてるから死にたいと思えるのであって、この世に存在してるけれども、生きてるって思ったことがないとしたらどうだろう。消えたいって思うんだって。

自分のことで想像してみると、何もないところで転んで、恥ずかしくて「今すぐ消え去りたい」って思うことはあるけれど。自分の存在を消したいって感覚なのかな。

私達で言う「死にたい」という場合に、その人達が使う言葉が「消えたい」だ。

同じ社会で生活しながら、異なる心理的世界に生きていた。

ある一つの方向に全ての言葉の意味がズレていた。

「生きている」という前提があるからこそ、「死にたい」のである。

食事にありつければそれだけで幸運だから、好き嫌い、おいしいまずい、何かを食べたいという概念は無かった

「食事に必ずありつける」という前提があるからこそ、「おいしい」とか「マズい」とか「好き嫌い」を言える。

同じ社会で暮らしていて、同じ日本語を使っているけれども、違いが出る。それに私はビックリした。

私にとって当たり前のことが、みんなにとって当たり前だった場合に通じる。で、当たり前のことって、誰にとっても当たり前のことだと思ってしまうけど、当たり前じゃないって人がいることを知った。この本を読んで。

「ん?この人はどういうつもりで言ってるんだろう?」と思うことがある。「なんでそんな冷たいことを言えるの?」と腹が立ったり、悲しくなったりすることがある。

それって実は、その人にとって当たり前のことが、私にとって当たり前じゃないからかな~って思った。

例えば、お母さんのことを「あの人」って呼んでる人がいるとする。自分の母親のことを、あの人呼ばわりするってどうなの!?と、まあ世間一般は思うだろう。

みんなが使っている「ママ」という意味が、自分のママとは違うと知り、「あの人」となる。

自分が社会的に「ママ」と呼ばれていい存在であるかどうか、自信がない被虐ママは、子供に名前で呼ばせる。

お母さんとは、自分を生んでくれた人、育ててくれた人。でもそれだけじゃなくて、寒い日には「暖かくして出かけなさい」と羽織るものを着せてくれたし、手が滑ってお皿を割った時はお皿じゃなくて怪我をしてないかどうかを一番に聞いてくれる。優しく見守ってくれたり、心配して気にかけてくれる人のこと。そういう、みんなの当たり前があって。

しかし、その当たり前が、違う人がいるということ。

もし、子供を私が預かることになったとして「今日から私がお母さん代わりだからね。」ということになったら、子供の面倒をかいがいしくみるだろう。「お母さん代わり」って、そういうことだから。お母さんってそういうことだから。

でも、それが当たり前じゃない人達は学校に行き始めて、他の子達の様子を見て初めて知る。「親子ってそうなんだ。知らなかった。」と。

自分が今まで「お母さん」と呼んでた人は、自分に優しくしてはくれなかった。あの人から生まれてきたのだから母親ではあるけれど。

まさか、そんな世界があったなんて想像も出来なかった。そう説明されたら、そりゃ「あの人」って呼ぶわな~と納得。私だって、そういうお母さんならお母さんって呼びたくないもん。

「普通の」目で見て解釈するのが違和感のもと。

小言がうるさくても、結局はお母さんっていうのは子供のことを大事に思ってる。っていうような「普通の」考えでいたら、お母さんのことを「あの人」って呼び方をしてる人のことを冷たい人間だと思ってしまう。

普通の人の経験から導き出される推測や想像力が通用しない。

自分たちの住む世界の常識で判断を下してしまう。

そこで語られる言葉は、平和な日常の中の言葉とは異なる。

私が「当たり前」だと思っていることっていうのは、「私が住む世界」での「当たり前」ってだけだ。他の世界では、当たり前じゃない。

だけど、私の住む世界ってのは特別で異質な世界じゃなかったみたいで、普通の人が「当たり前」と思ってることが私にとっても「当たり前」なことが多かった。そうすると、みんながみんな「当たり前」なことは全員が「当たり前」だと思ってると思ってた。

違う人がいるんだ。

で、違う人の見え方を聞いてみれば、なるほど~と分かる。意味不明じゃない。

「その人は、その人の事情がある」っていう言い方があるけど、本当にそうなんだな~。社交不安障害での「相手の領域」っていう考え方も思い出した。

私が住む世界があり、相手が住む別の世界がある。

相手の住む世界の言葉を使って相手が話している。その話を聞いた私は、私が住む世界の言葉の使い方で解釈する。そうすると、見逃す。本来、示している相手の言葉の意味を。

私が住む世界の言葉の使い方で解釈し、私は相手に何かアドバイスしたとする。相手は、「あれ?ちゃんと伝わってない。」と気づけばいいが、なんとなく腑に落ちない感じはするけどアドバイスを受け入れるかもしれない。本来の意味を見逃してるアドバイスなんて見当はずれなんだから・・・。

普通の診断と治療が通用しない

ということになる。

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「他の」目があることを知ったら、考え方が広がった

想像力って無限だけど、想像は有限だってのを聞いたことがある。

私は、もっともっといろんな角度から物事を見たいと思っていて、いろんな視点があれば何か疑問が出てきても「そうだ!こういう考え方も出来る」と、自分の心が穏やかになるような良い感じの答えを見つけられるから。

だから、自分としては、様々な方向から見てるつもりではいる。だけど、この本を読んで、思っても見なかった角度があったのだ、と思い知った。いや、そんなもんじゃなかったな。

私は今まで、自分は動かず、見ている物体をグルグル動かして、底をのぞいたりして角度を変えていただけだった。ちょっと頑張って、自分が動いてみて視点を動かしたりもしていたけど、しょせんその程度。

角度とか視点で終わってた。私の住む世界から見てただけだった。そう、私そのものの「目」を変えるって方法があったのだ。

同じ角度で見てたって、見てる目が違えば、全然違う!!!

今まで角度や視点について「もっと変な角度とか無いものかしら?」ってやってた。そんなちまちましたものなんかじゃなくって、探すべきは「目」だったんだ!

私の住む世界の目だけだと、想像は有限となってしまう。

この世の中には、むちゃくちゃたくさんの目があるんだろうな。その目で見れば、私のゴチャゴチャ考えてることもまた、全然違った捉え方になって、新しい考え方を見つけ出せるかも。


まだまだ考察は続く。

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