「人と接する」ことが怖い。だから、人と接することを回避してきた。そしたら、人と接することがもっと怖くなった。
接するっていっても、ささいなことだとしても、ビクビクするようになってしまった。前は平気だったことでも。
ビクビクすることに疲れた。なんで、こんなささいなことでこんなにも疲れなきゃならないんだ。
レジの人とか、配達員の人とかと接するのは、前は何も思わず接していたけど。
どういう人かとか関係なく、誰であれ「人」が嫌なのかな、私は。
陶芸家になって人里離れた山奥で暮らしたいと思ったことがある。漫画「るろうに剣心」の比古清十郎の暮らしが理想だな~と。(※人間嫌いな性格で昔から山中で一人暮らし wikipedia)
人って何なんだろう。人と接しなきゃ生きられないものなのか?人と接しないと「孤独」ってやつになるけれども、それってマズいことなのか?
人は人と接しなきゃ、どうにかなっちゃうの?
他人とのつながりについて、この本に書かれていた。
自分がいる(存在する)という確信は、同じ空間で他の人々とつながっていることから生まれ、過去も他人と共有していることで補強される
母に名前を呼ばれて、自分のことだと確認し、「このプリンおいしいね」と声を掛けられて、自分の口に広がる感覚を確認、共有することで自分が存在していく。
たとえ富士山が消えても、社会とのつながりがあれば、あなたの存在は保証される。
社会的つながり=あなたの存在の全て
きれいなどの感情の共有、ルールなどの規範の共有が安心を与える。
つながりがあれば、
自分の存在を疑わなくてもすむ
モンスターという漫画を思い出した。ずっと前に読んだから、うっすらとした記憶をたどると・・・。
確か、おじいさんが、「名前を呼ばれて、自分がその名前だと認識する。」「今の名前を知ってる人が、この世の中から全員いなくなれば、自分はその名前だったなんて分からなくなる。」みたいなことを言ってたような・・・。
そうかもしれないな~と漠然と思ってたけど。
あだ名ってそれと似てるかも。ある時、私は「リーダー」って友達に呼びかけられた。何のリーダーもやっていないのに。
誰のことか分からず「?」が頭に浮かんでいると、周りの他の友達が私の事を見た。その様子から、「え?これって、私のことを呼んでるわけ?」と思ってビックリした。
どうやらいつのまにか友達の間で、私は「リーダー」という呼び名が付いていたらしい。そしてこの時、初めて私本人をそのあだ名で呼んだらしい。
私自身が初めて呼びかけられて、誰のことを呼んでいるのか分からなくても、周りが私のことをそのあだ名だと認識していて、私を呼ぶ時はそのあだ名で言うものだとみんなが思っていたら、私も私がそのあだ名なんだなって思ったし、それ以来、そう呼ばれたら私は返事をした。
あだ名って「じゃあさ、リーダーって呼ぶね」とか「あなたのあだ名はリーダーね!」とかって本人に言ってくれないものなんだな。突然、呼ばれるんだな。
リーダーの由来は、なんてことないことで私がちょっとまとめ役みたいな感じで立ち振る舞ったことがあったから、らしい。
その友達の中でだと私はリーダーと呼ばれる人、だ。
でも、私がリーダーというあだ名で呼ばれていることを知らない人たちの中にいると、また別の呼ばれ方をしている。
あの友達の中では、私はまとめ役になるけれども、別の人たちの中ではまた違う役割なのかもしれない。
懐かしい思い出話をしていても、もし自分だけしか覚えてなくて、他の人全員に「そんなことあった?」とか「うそ!?それって、ありえなくない?だってさ、・・・」とか言われたとしたら。
はっきりと覚えていても、不安になる。あれ?確かに覚えてるのに、もしかして夢かも。記憶違いかもって、自分の記憶がおかしい気がしてくる。
逆もある。私が覚えて無くても、みんなにはっきりと「あの時ああだった!」と言われたら、覚えてないけど、そうだったのかもしれない、って思えてくる。
他人の存在を前提とする相対的存在である社会的存在が、存在のすべてであると普通の人は信じて疑わない。
社会的とは、社会にかかわりがあるさま。
社会とは、生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。
存在とは、何か「がある」こと。
一緒に協力して何かやってる人たちの集まりというのがあって、それと関わりがあるってことが社会的存在ってことなのかな。
相対的とは、他との関係において成り立つさま。
自分以外の「誰か」の存在が必要。
社会的存在も相対的も、他の人がいる前提だなって、言葉の意味を調べて思った。自分一人だけしかいないと、社会的存在とか相対的とか、意味がわからなくなる。
普通の人は、自分が社会的存在であることがとても大事だと思っている。
人と比べたりして(=相対的)、影響を与え合っている(=社会的)ことが存在の全てだと信じて疑わない。
ということは、自分が存在するのかどうかは自分だけでは分からないから、他人に「あなたは存在しているよ。」と教えてもらわなければならない。
他人とつながっていることで、私が存在することが確信できるってことなのか。
それを、普通の人は「信じて疑わない」。
信じて疑わない、という書き方。
思い込みかもしれないってこと?
本当だとは限らないのに、信じて疑わないってこと?
信じて疑わないから他が見えないだけで、別の何かがあるかもしれない?
その可能性があるにも関わらず、普通の人は「信じて疑わない」。信じて疑わないで暮らしている。
なにがあるのだろうか?
まだまだ考察は続く。
他人とつながっていることで、私が存在することが確信できる
この記事を書いていて頭に浮かんだ言葉がある。
「居場所」。
ドラマとかで、再婚家庭の連れ子が「あの家には自分の居場所が無い」みたいなことを言うよな~って思った。
自分の部屋も用意してくれてたとしても、「居場所がない」という言い方をする。
部屋を用意してくれてるんだから「ここにいていいよ」ということなんだけど、居場所がないと思ってたりする。
家が狭くて、物が多くて、自分が座るスペースが無いってことじゃなくて。
それは家族とつながりを感じられていないから、その子が自分自身の存在を確信できず、居場所がないと感じるのかな~と何となく今思った。
だとしたらやっぱり、人と接することは大事なのかもしれない。人と接することで、人とのつながりが作られ、そのつながりで自分の存在を確かなものにしていく・・・・。むむむ・・。