「嫌われる勇気」を読んで気付いたこと(感想)

人に好かれたい。いや、せめて人に嫌われたくない。

そう思ってる人は多いだろう。

私の場合は、人に好かれるわけないし、すでに嫌われてるんだろうな~、いや、好きとか嫌いとか思ってもらえるところまで行けてない、いるかいないかわからないくらい存在が薄いんだと思っている。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

今回の疑問「嫌われる勇気とは?」

私なりの結論『自分にガッカリする勇気』

「人に好かれたい」という言葉を聞くと、思い出すことがある。

それはサワコの朝という番組で俳優の中井貴一さんが言っていた話。

人にはそんなに好かれないっていうことが分かった、と。

みんな、人に好かれたいと思うから、こう言ったら好かれるだろうなと思うことを言ったりする。でも、「さほど好かれないんですよ。」って(笑)

私はこの話を聞いて、はっとした。

それと同時にこうも思った。もしかしたら、逆もありえる!?正直に言ったら嫌われるかもなと思うことを言ってみたところで、「さほど嫌われない」のかもしれない・・・!とね(^◇^)

最近、「嫌われる勇気」という本を読んだ。タイトルが気になったから。

人に嫌われる勇気を持とうという意味かと思って読んでいた。

人に嫌われることをおそれるな!

読む前は、そういうことを言われるのかと予想していた。

もともと嫌われてるけど?だから、勇気なんて必要ないよ?嫌われてるんだからね。

読んでみると、確かに、そういった意味で「嫌われる勇気」が書かれているとは思うんだけれども、私はこうも読み取れた。

自分に嫌われる勇気を持て!と。

私には、私を責めるもう一人の自分がいる。もう一人の自分に嫌われる勇気が必要なんだなって思った。

「外食で吐き気がするなんて情けない!」ともう一人の自分が私を責める。

それって、つまり「外食で吐き気がする弱い私」がイヤで責めてるわけだ。

外食で美味しく食べている私になれるだろうって思っている。美味しく食べるのが普通なんだから。

それが出来ない私のバカ!

これが自分を責める理由だ。

外食で吐き気がしている自分にガッカリ。

人前では手が震えて字が書けない(書痙の)自分にガッカリ。

私は、私にガッカリして落ち込んでいる。悲しい。ガッカリしたくない。だけどガッカリさせられる。

私は私に怒る。怒って責める。

私は、自分にガッカリする勇気が無い。

一瞬ガッカリして、でもすぐそこでガッカリを怒りに変換して自分を怒鳴りつける。責める。

ダメな自分を責める方に意識を持って行けば、ガッカリしないで済む。

書痙や吐き気がする自分がイヤだ!と思ってるんだから、自分にガッカリする勇気あるわ!自分が自分に嫌われる勇気あるわ!と思ったのだが。

ガッカリする勇気があるんだとしたら、自分を責めることはしないんじゃないかなって。

「外食で吐き気?人前で手の震え?そりゃそうだな、私は弱いもんな」と自分にガッカリしていれば、責めることなんてしない。

私は私が嫌いなら、私なんて情けないままでいたらいいんだ!と思って、自分に怒ったり、自分を責めたりしない。

自分が自分に嫌われる勇気、自分にガッカリする勇気があれば、情けない自分、みじめな自分とかのネガティブな感情も抵抗なく受け入れているハズ。

本を読みながら、途中でそんなことに気が付いた。

自分の中の自分も、他人として考えてみる。あ、ここにも一人、人がいたわ!みたいな。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

私が自分に嫌われる勇気を持て!ガッカリしていこうぜ!

好かれたい、良く思われたい。これって、よくよく考えてみれば、自分のことを「出来る人間だ」と内面を認められたいわけじゃなくて、なんかもっとこう中二病みたいな感じかもしれない。

「すげ~!かっこいい~!!」と憧れてくれ!この私を褒め称えてくれ!「服のセンスがいい!」「立ち方がかっこいい」「ふとした表情が渋くてかっこいい」というような部分で。

言ってしまえば、見栄を張りたい部分で、最高に良く思われたい。

かっこつけて、かっこつけた部分を、きちんと余すところ無く、それ以上におまけ付きで「かっこいい~!」と思われたい。

極端に言うと、そういうことなんじゃないかな、と。

で、人って「カッコ良いってさほど思ってくれない」わけなんだけれども。

というわけで、「嫌われる勇気」にピンとこなかった私が、勝手な解釈で「自分にガッカリする勇気」なんじゃないのかと思った本。


まあ、両方だよな~。私が自分にガッカリする勇気も必要だし、人からガッカリされることを受け入れる私の勇気も必要。

まだまだ考察は続く。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
ひとり言
シェアする
kanrininをフォローする