相手の立場になって考えることがちゃんと出来ていたのだろうか

相手の立場になって考えてみるっていうのは、どうやるのかってのが分かった。

今までは、「私がもし○○さんだったら、こう思うだろうな~」っていう考え方をしてた。

相手の身になるっていうのも「もし私がこういうことになってしまったとしたら~」って考えるけど、そうじゃない。

前回「消えたい」という本を読んで「普通の目」じゃない目があることを知ったを書いて、思ったこと。

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「普通の」目のことを知って、違う目の存在も知って、思ったこと

私なりの結論『相手の立場になって考えるとか、相手の身になるというのは、相手の脳みそになるってこと。』

これって「私の目で見て解釈してる」んだ。相手の目では見てない。私の目で見た相手の目から見て解釈してるだけだ。「もし私だったら」の「私」を外す必要があるということ。

「私の目」や「私」が指すものは、「前提」だ。

私が「当たり前だと思っていること」を当たり前だと思ったまま、相手の立場になって、相手の身になって考えると、間違ってしまう。

私の持っている当たり前を全て取っ払い、相手の世界での「当たり前だとしていること」や「前提」を頭の中に入れているからこそ、相手の目で見ることが出来るのだ。

だから、相手の立場になったり、相手の身になるためには、相手のことを詳しく知らないといけない。知ってないと相手の立場にはなれない。

知らなければいけないのは、「当たり前だと思っていること」だ。当たり前だと思ってることって、自分ではよく分からない。

人と話してて、「え!?それって変じゃない??」と言われて初めて「これって私だけが当たり前だと思ってることだったのか~」と気付くこともある。

誰しもが知ってる前提で話されていて、聞いてるこっちはちんぷんかんぷんだったこともあるし。

ん~・・・よく分かんないや

そもそも、本を読むまで、「当たり前だと思ってることは、みんなも同じ。」と思ってた。だから、そういう前提で相手の話を解釈してて、別にそれで大丈夫だった。

分かり合えないことも、多々あった。だけど、まあ、お互いに相手の境遇になれないし、相手に乗り移って過去にタイムスリップして同じ経験をすることも出来ない。私のことは他人には分からないんだから、私だって他の人のことは分かるわけないよな~と思っていた。

でも、相手が「当たり前だと思っていること」を聞いて、相手が持っている「前提」からスタートして物事を捉えると、私も相手と同じ行動をするだろうな~と急に共感できた。

「どういうことを「前提」としているのか」ってことを知るのって、すごく大事なんだな~。

その「前提」を頭に入れられると、今までよりもずっとずっと「相手の立場になる」ってことがちゃんと出来る。

相手の今の状況を考えるだけになりがちだけど、相手の立場になるってのは、相手の人生丸ごと頭の中に入れて、そこから見る。

相手の身になるというのは、今までのイメージだと、私がその人になる、私の意識をその人の体に入れるというか乗り移るみたいな感じだった。そうじゃなくて、相手の身になるっていうのは、私の体に相手の脳みそを移植するみたいなことだ。

相手の身になる時には、私の考え方とか性格とかをどっかに捨てなきゃダメだったんだ。相手の身になるというのは、身になるんじゃなくて、相手の脳みそになるってことだ。

そうすると、ムカついてた誰かの言動を思い出してみてもムカつかなかった。

怒りを沈める時に、相手の領域と自分の領域を分けて考えて、相手の領域に踏み込まないし相手を自分の領域に踏み込ませないという方法を知ったけれども。

自分のいる領域を、相手の領域の色に一瞬変えてみる。相手をこっちに踏み込ませるわけじゃないし、私も相手の領域に踏み込むわけじゃなく。私が、私の領域を守りつつ、私の領域を相手の領域の色に変えてみることで、私は私の領域の中にいるし相手はあっちの相手の領域の中にいるのに、ちゃんと感覚を同じにして分かることも出来るんだな~。

相手も、相手の領域の中にちゃんといつつ、私の領域の色に変えてくれて、そこから見てみてくれて解釈してくれたら。

お互いに、そういう方法を使って、話を聞き合えたら。

言葉がうまく伝わらなくて、もどかしい思いをすることも無くなるんじゃないかな。

相手の脳みそになるためには、どんなことを思っているのか、それから私が言ったことを聞いてどんな解釈をするのか、どんな目を持ってるからそういう解釈になるのか、とことん知ることが必要。

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私の目だけじゃなく違う目からでも見られるようになるには、コミュニケーションをたっぷりとって、見たい目を持つ人が住む世界の「前提」を教えてもらわなければならない。

本を読んで、私も私の住む世界があるってことを認識した。

ここに書いてあることなんて、まさに「私の目」を通して、文章にしてるわけだから。

これを読む人は、「その人の住む世界からその人の目」で見て解釈するんだろうから、私が思っている通りに解釈してもらえるかは分からない。

私と似てる目を持ってる人には共感してもらえるだろう。違う目の人には「なんか、書いてることは分かったけど、変なこと書いてあるな~」と思うんだろうし。

否定されたくない!共感してほしい!「わかるわ~」って言って!!と思ってた。受け入れてもらえそうもないなら、自分が思っていることを誰にも打ち明けたくない。

だけどきっと、私の「前提」を知ってくれたら、分かってくれるんだろうなと思える。私だって、その人の「前提」を教えてくれたら、分かることができる。

私もこれからは、何かムカついたり悲しかったりした時は、私の目でしか見てないからだって思い出して、他の目でも見てみるようにしよう。

他の目で見られるようになるには、いろいろな人のいろいろな「前提」を知っていなければいけない。「前提」の数が多ければ多いほど、いろんな見方ができる。

それが「視野が広い」ってことなんだろうな。


まだまだ考察は続く。

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