社交不安障害になると、回避や忍耐が起こるようになる。
回避とはどういうことかというと、嫌な場面から逃げたり人に会わないようにしたりして、苦しい状況を避けること。
回避ができそうもない時は、すごく無理をして耐えることが忍耐。
私は、よく回避している。逃げ出せない時は耐えるのだが、いつも逃げようとして隙を探している。
今回の疑問「どうやって治していけばいいの?」
頑張って不安に耐えても不安が減っていくことはなくて、むしろ不安を強く意識することになってしまうという結果に。
単純に、気にしすぎ?自意識過剰??
社交不安障害の人は一般に「自意識過剰」などと言われるものですが、ネガティブな評価という面でのみ敏感な「自意識」を持っていると言えます。
自意識過剰と言われないために注意するけれど、それがまた自意識過剰なのだ。自意識過剰の重ね塗り。油絵だったら重ね塗りしていいんだけど。
不安反応を気にすればするほど、不安が強まり、不安反応そのものもひどくなる、という悪循環が成立します。
字を書く手が震えていることを気付かれたくない!恥ずかしい!
そればかりを考えて、震える手に神経が集中しちゃって、余計ガクガクブルブル。
こんなに手が震えるって、体が変なのかもしれない。
そう思うんだけど、吐き気や手の震えそのものには病的な意味はなくて、危険だ!と思った時の反応なのである。不安によって自律神経のバランスが変わるから、そういう反応が起こる。
その反応はおかしくない。おかしいのは、その状況を危険だ!と思ったこと。
私が使っているガスコンロは高温になるとピピピと音が鳴って火が消える機能がある。火を付けたまま忘れた場合、料理が焦げて危なくなったら勝手に火が消えてくれる。これは助かる。ただ、餃子をパリパリに焼きたい時にもピピピと音が鳴って火が消えてしまう。
だからって、この機能をストップしてしまえば、うっかり火を消し忘れた時、鍋が高温になっても勝手に消えてくれないのだから怖い。
じゃあ、どうするの?
火を消す機能は素晴らしいのでこのまま。修理するべきなのはセンサー。「この高温は餃子をパリパリにするのに必要だからオッケー。」「この高温は発火するから危険だ!」というふうに、センサーがきちんとしてくれればいいのである。
社交不安障害も同じことであり、対人状況を「危険」と感じるセンサーを調整することが適切な対応になります。
危険な状況と、危険じゃない状況がちゃんと判断できるようになるといい。
社交不安障害の私は、今は、誰だろうと「人」がいれば、すぐに「危険だ!」とセンサーが作動、サイレンがピピピ。手の震えを開始させる(^^;
人がいると手が震える。ああ、人が怖い。こんなに手が震えるんだから、人ってやっぱり危険だ。
身体症状があると、こんなふうにどんどんその状況に対して「危険だ!」という思いを強めていってしまう。
人前で話そうとすると頭が真っ白になる、というような症状を持つ人は、「だから人前で話すことは恐ろしい」と思うのです。でも、キッチンの火災報知機にたとえてみれば、魚を焼いたらサイレンが鳴った、「だから今起こっていることは火事なのだ」と思っているのと同じことになります。調整すべきはセンサーの方です。
すぐに「危険だ!」と騒ぎ出すセンサーのズレをどうすればいいのか。
まずは、センサーは何に対して、そんな敏感になっているのだろうか。
人が怖いって言ったって、人が何をしてくるっていうんだい?
社交不安障害の人の対人関係は、「いかにしてネガティブな評価を避けるか」というテーマを中心に回っているといっても過言ではありません。
「人とのかかわりを避ける」「自分がネガティブな評価をされないように常に努力する」というスタイルが中心になります。
とにかく、ネガティブな評価が怖いわけだ。この先にはネガティブな評価が待ってるっぽいと思うと危険だから逃げる、と。将棋みたいな話だな。2手3手先を読んでる。
「そもそも人と会わなければいいんだ。会わなければ評価されることもない」ってことになっていく。
社交不安障害の人は、他人の言動をネガティブな方向にとらえやすいんだそうだ。
ということは、とらえかたを修正していけばセンサーのズレが直る!
それには、認知行動療法を使う。
認知行動療法というのは、認知(ものごとのとらえ方)に焦点を当てた治療法である認知療法と、恐怖する状況に段階的に慣れていく行動療法を組み合わせた治療法です。
とらえ方を生み出すもとは、さまざまな思い込み。
以前の記事で、役割期待のズレというのをやった。
私が相手に期待する役割。こういう場合にはこういうふうにしてほしいって思うこと。
相手が私に期待する役割。
これらは、思い込みだ。この人はこういう時はこう振る舞うべきだ、みたいなことを勝手に思っちゃってる。それで、違うことをやられると腹が立つっていう。
社交不安障害をあてはめてみるとどうなるだろうか。
健康な私が外食で吐き気で食べられない。
友達は健康な私に対して「もっと食べなよ~」と言う。食べなきゃ!と思って私は吐きそうな自分に意識がどんどん向いて余計に吐き気が強くなって食べられないし泣きそうになる。
社交不安障害という病気の私が外食で吐き気で食べられない。
友達は病人の私に対して「食べたいのに病気で苦しいんだな」と思ってそっとしといてくれる。だから私は食べなくてもプレッシャーを感じることはない。
健康なのか、社交不安障害という病気にかかっているのかで、相手が私に期待する役割が変わるだろう。
私自身も、自分への役割期待が変わる。健康だと思うから吐き気を感じる自分を責める。でも社交不安障害という病気にかかっているんだと思うと、自分を責めるんじゃなくて病気を治すことについて考える。
自分をどうとらえるのか。
病気を自分の人格であるかのように思いこんでいる人が多いものです。病気は病気であり、人格とは関係のないことです。社交不安障害を病気として認め、病気と人格を混同することはやめましょう
病気と能力の混同もやめる必要があります。今までに「やりたいこと」「やるべきこと」がうまくできなかったのは、本人に能力がなかったからではなく、病気の症状が強かったからです。
臆病だから人前で手が震えて字が書けないんだ。と思っていたところから、これは病気の症状なんだ、と理解していくことは社交不安障害を治すために必要。このことは以前にも書いた。
物事のとらえ方に焦点をあてていくことがセンサーのズレを直すのに有効だと今回で分かった。
参考にした本↓
自分が、社交不安障害という病気にかかっていると理解することは、センサーのズレを直す一歩になる。
病気と人格、病気と能力は別々のもの。そういうとらえ方から、センサーのズレを直していく
もうずいぶん長いこと、社交不安障害に苦しめられてきたから、いろいろこんがらがっている。
物事のとらえ方とか、考え方とかが。
「人が怖いってことで、もういいや。とにかく人と顔を合わせる状況は、避けよう。」そんなふうに決めて、ぐちゃぐちゃに絡まった糸をどうにかすることを諦めて、丸ごとポイって投げてしまっていた。
絡まりあって、ほどけそうもない糸を今、根気強くほどいていってる感じだ。
団子状で固結びみたいになってるのがあっちこっちに見えている。
完全にほどける日は来るのだろうか。
まだまだ考察は続く。