夜と霧を読んで、人間の嫌な部分のとらえ方が変わった

一番好きな本があって、それは「夜と霧」という本だ。

この本の原題は「心理学者 強制収容所を体験する」。強制収容所での過酷な生活が書かれている。

何が好きかっていうと、人間の良い部分と悪い部分の両方が書いてあって、人間ってすごいなって思わせてくれるところだ。

今回は、夜と霧について書きたいと思う。

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「夜と霧で印象に残った箇所」

『人間とは「人間とは何か」を常に決定する存在』

人間ってすごいな~と思ったところがある。

人間は何事にも慣れることができる、それはどこまでも可能

枕が変わると眠れな~い。ちょっとした物音がするだけで起きちゃうの~。私、デリケートだから~。とかいう人もいるけれど。

かすかな物音でも寝つけなかった人が、ここでは耳元で大きないびきを聞かされてもすぐ眠れる。

どうやったら、そうなれるのか。

今、体を休めないと!という状況だからだ。

生きるには、寝るしか無い。

枕が変わると~・・・。ちょっとの物音で~・・・・。

そんなことを言えるのは、枕にこだわれるし、静かな安心した場所があるって証拠だ。

身が引き締まる思いがするのが、これ。

私たちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

仲間が暴力を受けても何も感じずに眺めていられるし、仲間がどんどん死んでいっても無関心で、その死体から自分のよりましな靴屋や上着を取ったり。

これを本人が書くのがすごいなって。

いい人は帰ってこなかった

じゃあ、帰ってきたあなたは、いい人じゃないってことになりますけれども、それでよろしいんでしょうか~?と言いたくな・・・らない!

ただのいい人は帰ってこれない。そうだろうなって、この本を読んだら思う。

だからって、帰ってきた人は悪い人だということでもない。

労働で死ぬほど疲れている時、同じように疲れている仲間が呼びに来た。太陽が沈んでいくのを見るためだけに。そして数分間、世界の美しさに心をうばわれた。

仲間が暴力を受けたり死んでいくことに無関心になり、心を麻痺させることで精神的なダメージを受けないようにしたんだと思う、無意識に。

そうしないと身がもたないから。

なのに、くたくたに疲れた仲間をくたくたに疲れた仲間が呼びに来て、みんなで夕日の美しさに見とれる。

このような苦しい状況にあっても、人間らしさを失わずに生きるのか、全てを放棄してモノになりはてるか、自分自身で選び、決断する。

モノになってしまったり、未来を信じられなかった人は、破綻していったそうだ。

「いい人」「悪い人」とか、そんな悠長なことではない。

いい人なだけでは生き抜けない。だからといって、悪い人なだけでは生きていられない。

いい人でもあり悪い人でもあるのが人間。

なぜ生きるのか。なぜ生まれてきたのか、とか考えることがある。

結局分からなくて、意味なんて無い!という結論になって。

でも意味が無いってのもなんか、役立たずっぽくてイヤだというか、意味が無いなら生きなくていいじゃないか!って思いたくもなるし・・・。

生きる意味がもしあったとしたら。

生まれた時から「この子は将来、俺の店を引き継いでもらう」とか親に思われてて、後継ぎとして生まれてきたとしたら。

「なんでもう決められてるわけ!?」と反発しそう(笑)

生きる意味が誰かから与えられてたら腹が立つ。でも、意味が無いのも、ちょっとイヤだ。

強制収容所で、ヒドい扱いを受けている最中に、なぜ自分は生きているのだろうかって考えたとしたら、どうなるのか想像してみた。

なぜ殺されないでいるのか=強制労働させるため

これからも生きるなら、強制労働しなくちゃいけない。

労働できない人間は、強制収容所には要らない。

なぜ生きる?生きる意味は??→強制労働するために生きている。

強制収容所で、生きる意味を考えたら、こうなってしまうと思う。

強制労働するために生きている。じゃあ、もう、生きていたくない。

そんな状況では、生きたくなくなってしまうのが普通だ。でも、その考え方を変えてみる。

生きる意味についての問いを180度方向転換させる

私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているのかが問題だ。

心臓は、鼓動を打つのをやめていない。

私に、生きることをやめさせない体があって、これは一体何なんだ?

今のこの瞬間まで「生きる」ってことが出来てて、きっと何か期待されたものがもうすでに何個かやっちゃえたから、体は生きることをやめないでいるのかもしれない。

そして、また何か期待されていて、生きることを続けさせているのかもしれない。

私は、何を出来たのだろう。そして、また次に何を期待されているのだろう??

その期待されているものっていうのも、別に大したことではないのかもしれない。道端の石を、持ち上げてちょっと右にズラす程度のどうでもいいことかもな~。そんなことで、生きてていいのかもしれない。

世の中には2種類の人間しかいない。まともな人間と、まともではない人間。

実にわかりやすい。まともな人と、まともじゃない人の2種類だけだ、と。そして

まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。

自分たちのことを人間扱いしてくれない鬼みたいな監視員ばっかりだと思っていたのに、監視員の中にもそっとパンをくれるような優しい人もいた。

人を裏切ってまでも生き延びようとする、人間は嫌な存在だってズバっと切り捨てたいのだ、私は。いっそのこと。

人間はろくでもないなって結論になれば、私自身も人間でありながら、人間を大嫌いになる理由があっていい。社交不安障害でもけっこうですよ、フン!!ってやりたいから。

なのに、強制収容所でヒドい生活をした人が、人間を嫌なものだって結論になってないのである。

どんな結論なのかというと、こうだ。

人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。

ここを読む度に、泣きそうになる。

祈りの言葉を口にする存在なんだけど、ガス室を発明する存在でもある。

いい人もいるんだなって感動したのに、悪い人に出会ってガッカリ。しょせんこの世は悪い人ばっかりだと心を閉ざしたのに、なんていい人なんだ!こんな人もいるなんて!と思わされたりもして。

どっちも居る。なんでどっちも居るのか?

人間とは「人間とは何か」を常に決定する存在だ。

私が、もし人間大嫌いって思うことに決めて、社交不安障害でもけっこうですよ、フン!!ということで生きたら・・・。

逆に、私もやっぱり人の気持ちをラクにするような穏やかな感じで接する人になれたらな~と思うし、そうやって生きれたらな~ってことでそうしていくなら・・・・。

人は、強制収容所に人間をぶちこんで全てを奪うことができるが、たったひとつ、与えられた環境でいかにふるまうかという人間としての最後の自由は奪えない。

強制収容所での生活で、廃人になることもできるし、夕日をキレイだと思う人でいることもできる。

何不自由なく生活していても、社交不安障害の苦しみから人間嫌いとして日々を過ごすこともできるし、社交不安障害の苦しみがあろうとも人間好きとして日々を過ごすこともできる。

「いかにふるまうか」っていうのは、絶対に奪われることはない。いかにふるまうかだけは、いつでも自分で決められる。

それを知っているだけで、なんか違う気がする。全部奪われたと思いきや、最後のこれだけは自分でコントロールできるっていうものが残ってるっていうのは、まだいけるかもって思えるし、心の支えになる。

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人間とはガス室を発明した存在であり、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ!!

強制収容所から生きて帰ってこられて、人間的にも成長して、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。

ドラマとかならそうですが、実際はそうじゃない。

解放されて、自由になったけれど、これは夢じゃないのかって思う。

今度は自分が力を行使する番だ!と勘違いをしてしまう。

愛する妻が迎えに来てくれるものだと思ってたのに、いない。

周りの人はその場しのぎのいい加減な言葉をかけてくる。

生きて帰ってきたというのに、何?この状況。ちょっとー!!!っていうのが現実。

いつかこの体験をふり返った時、あの苦しい生活にどうして耐え忍ぶことができたんだろう、と思う日がやってくる。そして、あれほど苦悩した後では、もはやこの世には神より他に恐れるものはないなぁという感慨によって完成する。

んだって。←雑な締め方ですいませ~ん(^◇^;)



まだまだ考察は続く。

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